まわり こどもの本の専門店
福岡県京都郡みやこ町豊津326-1 Tel: 0930-33-8080 Fax: 0930-33-8081


2017-11-27

店主のつぶやき



これまでのこと



15の春は泣かせない
 子どもが小学校に入学し、PTAの仲間に加わり、教育問題や社会のいろんな問題について勉強をする機会を得ましたのは、随分昔のこととなりました。当時はヴェトナム戦争の終わりがまだまだ見えない頃でした。私の住む町には新しく出来た基地があり、航空基地を抱える隣接の町から飛び立つ戦闘機の騒音はもちろんのこと、基地が直面するさまざまな影響などもありました。そんな中、高校入学校区が拡大され、今までは地域の子が地域の高校に通っていたのですがそれが難しくなり、同時に中学校も荒れてきました。
 近い将来自分たちの子どもが通うことになる中学校です。何とかしなくてはと先輩たちが立ち上がりました。そして無料学習塾「寺子屋」を始めたのでした。私もおずおず後ろに付いて毎週二回ほど、中学生たちの勉強のお手伝いをすることとなりました。


「文庫」は難しい
 仲間たちが寄れば必ず子どもや、子どもを取り巻く環境の話題で盛り上がります。「図書館や博物館、美術館が住んでいる町にあったらいいね、せめて図書館は欲しいよね」などの話がでます。すると図書館設立の運動をしようよ、ということになります。でもその時は、それぞれみんな働き盛り、なかなかそこまでは手が回りません。仕方がない、そこで私が家にある本で「文庫」を始めることにしました。ところがなんと「本を返して」の、その一言がどうしても言えないのです。
 そいじゃあと思い切って本屋を開くことにしました。当時人口六万人の行橋市です。せめて30万の人口がなければ専門店は難しいとの意見、注進さまざまの中、娘三人抱えた私は経済音痴のノーテンキな単親。時は1970年代半ば、10年も続いたヴェトナム戦争終結の兆しが見え始めた頃のことでした。


どうして「ひまわり書店」なの
 行橋市に「ひまわり書店」を始めた頃の私は30歳そこそこでした。若さというのは親を全面的に肯定出来ないものです。ましてや親の七光りなんぞ、とんでも無いことです。ですから本屋の名前も「前田書店」とすべきとの多くの意見に従えず、近くにお住まいの元高校教師で、郷土史を研究なさっていらした古賀武夫さんに相談しましたところ「子どもが好きな花はチューリップだけど、それだとあなたの鼻の下が長いようだからダメ。ひまわりは子どもも大人もすきな花だから『ひまわり書店』」とのことで、ありがたく頂戴いたしました。その後上野英信先生に「こまわり書店」との異名をも頂きました。


町に図書館を!
 ただ本が好きなだけのまるっきし何も知らない、初めての商売です。たくさんの方たちの助けを頂き、なんとか数年が過ぎた頃、ふと気がつけば子どもたちの姿が見えません。店に来て下さるお客さんの大半がおとなです。子どもたちは忙しく、その上、当時は寄り道はダメ、校区外はダメ、行っても良い所は塾か、お稽古くらいです。
子どもの本そのものがまだ市民権を得ていない時代です。やっぱり、図書館がなければとつくづく思っていたところ、素晴らしい図書館員さん達と出会いました。早速友人知人を誘いまくり、こぞって図書館運動(?)にのめり込みました。


本はなくとも子は育つ?
 時代の流れもあったのでしょう、やがて近隣の町にも続けて図書館が建ちました。子どもも大人も誰でも図書館を利用することが出来ます。お年寄りたちが囲碁、将棋を楽しむ場所が用意された図書館も出来ました。けれども時間に追われる子どもたちはと言えば、図書館でゆったりとした時間を過ごすどころかテストや受験に追われる毎日。そして小さい子たちにアレルギーだ、アトピーだと体の変調が目立ってき始めました。その頃からです。私が悩み始めたのは。一体、自分は何のために、何をしているのだろう、と。
そもそも、私は「子どもに良い本」を「与えなければ」と、思っていたのです。「良い本」を手にした子どもたちはやがて大きくなった暁には、ユートピアとまでは言わないにしても、世の中は良い(?)方向に向かって行く筈なのだと思っていたのです。何とおこがましい事でしょう。その事に気付かされたのは1993年の自宅の火災でした。


「瓢鰻亭」の由来
 「瓢鰻亭」は父前田俊彦が1960年代から発行しておりました、ミニコミ通信『瓢鰻亭通信』に由来します。1970年代初め、そこに住む人々との話し合いもなく、国の方針として空港建設を強行している当局と千葉県三里塚の人々との間で争議が続いておりました。心ある多くの人々、学生、団体が住民運動応援に駆けつけました。そんな中、還暦も過ぎた父はついには三里塚に居を構えるまでに至り、その庵を自宅書斎と同じく三里塚「瓢鰻亭」と称しておりました。「瓢箪鯰」の喩えがあります。瓢箪で鯰を押さえるのは難しい、瓢箪で鰻を押さえるのは尚難しい。「ヒューマニティ」とはそれほど困難である。そこで私信を「瓢鰻亭通信」とした。というのが父の言でした。


ヒューマニティと森羅万象悉くが森羅万象悉くであること


 脳梗塞の後遺症で半身不随となった父と暮らすために、築百年を超す段差の多い古家を小さな家に建て替えました。1993年4月、引越しも終っていないばかりか、火災保険に加入もしていない新築のその家は焼失してしまったのです。父のためにと建てたのに父は焼死、残ったのは建設にかかった負債のみ。
 それからというものこの出来事の意味は一体何だったのだろうとの思いが脳裏から離れません。そして父は何を考え、どういう思いで「ヒューマニティ」を追求しようとしていたのだろうかとも。以前、父に尋ねたことがあります。「ヒューマニティって何なの」と。すると「森羅万象悉くが森羅万象悉くであることじゃ」との答えでした。それを聞いた時はなんだかはぐらかされたような気がしたものでした。が、後悔と悔恨でいじいじと父の死を考えていた時、ふとこの言葉が浮かんで来たばかりか、心の一箇所にすとんと落ちるものがありました。


焼け跡に立って
 焼け跡に立って私は考えました。これから先どうしたものかと、考えに考えました。そして決心をしました。ここに子どもの本屋を建てよう。父の生前の常套句「子どもにあれをするな、これをするなと言うならば、あれをしても良い、これをしても良いという日や、子どもにだけは許される行為があっても良いではないか。たとえば子どもだけはかすみ網でもって目白や鶯を捕ってもよい、だけどちゃんと飼え。飼い方は大人が教える。それが道理と言うもんじゃ」を具現化しよう。それに、地域には無農薬、自然農法で頑張っている人達もいる。魚の種類の豊富な豊前海に面した地の利もある。だとすれば、かつて私たちが子供の頃に食べさせてもらった添加物の入らない食事を作ることが出来る。そうだカフェも併設しよう、等々思いは広がります。ともかくやろう、家は焼けてしまったのだし。


「蔵」という建物
 そう決心すると早速計画にかかりました。場所は父の書斎跡です。ところで建物はどうしましょう。建築雑誌は今のように漆喰壁やムク材の使用を勧めてはいなく、当時建材関係社が使って欲しい工業製品材料の紹介のように思えました。グラビアに見る外観もおしゃれで、内部も素敵な設計です。心は動きますがなんだかしっくりと来ません。本も沢山読みました。そして気付かされたことは、結局のところ、どの様な生き方をするか、それを私自身が明確に意識していないということでした。
 未来に向かって生きる子どもたちと過ごす空間です。エコロジーを抜きには考えられません。そして、出来上がった建物はこの地の気候風土に適したものでなければなりません。高温多湿の夏を旨とする伝統工法、しかも居住空間ではない、とすると、ようやく思い至ったのが「蔵」でした。厚い壁によって、本も人も湿気や暑さ寒さから保護される。しかも、壁の材料は土と竹と古い瓦です。これぞエコロジーではありませんか。


溶鉱炉の耐火煉瓦が床になった!
 考えて見れば、人々が定住をし始めて以来、それが何処であれその地の材料で、その地の気候風土に適し、用途に即した建物が考えられ進化して来た筈です。王侯貴族を別として先人たちは後々の代に迄、燃えない、腐らない、自然に帰らない建造物を造ってはいなかったのでした。「蔵」もそんな日本建築のひとつであったと思います。
 北九州は鉄の街でした。製鉄工場では溶鉱炉を何年か毎に築かえをしていて、その際に出た再利用可能な耐火煉瓦を整理販売する業者がいました。本屋の床は小さい子どもや大人も寝転ぶことが出来るようにムク材にして、カフェやその他の床は全てこの煉瓦を使うことにしました。産業廃棄物としてはやっかいな古瓦や煉瓦は、こうして建物の壁や床に再生されました。


35年が経ちました
 「ひまわり書店」から生まれた本屋は「ひまわり・こども」です。その頭に「瓢鰻亭」を冠した「瓢鰻亭ひまわり・こども」が豊津町(現みやこ町)に建ちあがったのは1996年のことでした。以前、膨大な量の「瓢鰻亭通信」や雑誌等に掲載されたものを、ある出版社が全集にしてくださるとのお話がありましたが、それもいつの間にか立ち消えになっておりました。その編集計画では20巻を超える全集になるらしいとのことでした。
 それではと新木安利さんがご苦労の末、21章仕立ての本「百姓は米をつくらず田をつくる」を発行してくださいましたのが2003年。父の死から10年後のことでした。翌2004年にはその本が第17回地方出版文化功労賞受賞に選ばれました。このように多くの方々のお力添えあって今日の「瓢鰻亭ひまわり・こども」があります。お陰さまで今年は創業35周年を迎えます。深謝致しますと同時に今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

                                              2011年1月




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