まわり こどもの本の専門店
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前田俊彦は、明治生まれの日本の20世紀を代表する思想家のひとりと言われ、ひまわりの店主前田賤の父でもあります。行橋市に生まれ、日本各地、そして世界各国を旅して(この年譜には出ていないが、わたしの記憶だと70年代に南洋諸島を訪れ、後にヨーロッパにも行っている。)、自身の思想を打ち立て、自分の足で歩き、行動し、ひとびとにひろめようと生涯努力した不屈のひとでした。彼のような人生を歩んだ人間のことをこのような場所で簡単な説明文で分かってもらうのは容易なことではありません。また、正直のところ、祖父が亡くなって新聞各紙に英字新聞も含めて大きく「明治の最後の巨匠逝く」というのを書かれているのを知り、いえ、出版社の知人に「君のおじいさんは偉いひとだったんだよ!」とニューヨークの日本料理屋で新聞をつきつけられるまで「へぇ・・・おじいちゃんってえらいひとなんだ・・・」とよくわかっていませんでした。そして、だんだん年を重ねてゆくにつれ、彼の人間として、思想家としての大きさがわかってきたような次第です。ですので、ここでは、あえて孫の立場から見た「祖父俊彦」を書かせていただきたいと思います。年譜と併せてご参考にしていただければ、と願います。

おじいちゃん、そして不屈の人、前田俊彦

祖父は大きな人でした。昔の尺法でいえば6尺、メートル法では180センチほどの身長があり、体格も良く、明治生まれにしては珍しかったようで、どの写真を見ても周りのひとよりも首一つ抜きん出ています。また耳の毛や髭も濃く、ロシア人などと間違われていたと聞いています。彼にとってわたしは初孫であり、名前の芳(かおる)というのもつけてもらい、一緒に小学3年までひとつの布団で寝て育ちました。思い出は沢山あります。その中でも、特に思い出深いものをここに書きたいと思います。

まず最初に、彼は優しいおじいちゃんでした。そして人懐っこくて少し寂しがり屋でした。わたしが高校2年のとき、福岡の高校から修学旅行で東京に行ったことがありました。もうそのころ祖父はすでに拠点を成田に移しており、ほとんど関東にいました。

祖父はわたしが東京に来たのを喜んでくれ、自由時間に会おう、と連絡をくれました。待ち合わせは渋谷。片手に雑誌を持った祖父が雑踏の中から現れました。まず今夜の予定を一緒にたてよう、と言うので、二人でカフェに入りお茶を飲みました。祖父の手の中にあったのは雑誌『ぴあ』。二人で額を突き合わせ、その晩に渋谷近辺で行われているイベントを調べ、パルコ劇場に行くことにしました。加藤登紀子のコンサートを観たのです。祖父は音痴でした。彼が歌うのを聞いたことがありません。その晩は、手拍子もリズムからはずれていました。へぇ、音痴のひとって手拍子まで外れるんだ、と、隣でわたしは驚きました。けれど、大きな体の祖父が楽しそうに一生懸命手拍子をしている、しかも外れて・・・その姿がなんだかいじらしくて、久しぶりに祖父に会えたことがとても嬉しかったのを覚えています。その後も書店で外国雑誌を買ってくれたりしました。そうするうちに夜は深け、帰らなくてはならない時間をとっくに過ぎていました。でも、祖父はわたしを帰す気は毛頭なく、言いました。

「朝日新聞に頼んで、築地の良い旅館の部屋を抑えてもらってるんだ。そこに今夜は泊まりなさい。」

わたしは、う〜ん・・・と返事に困りながらも、そのまま築地に行こうと言い張る祖父を説き伏せ、とりあえず一緒に宿舎に戻りました。入り口に学年主任と担任が仁王立ちになってわたしの帰りを待っていました。とっくに戻るはずの時間は過ぎていました。そこに祖父の一言。「孫と一緒に時間を過ごしたいので、宿に泊まらせます。明日の朝一番に届けますから心配なく。」

もちろん学校側の答えはノー。教師たちがなかなかあきらめない祖父を丁重に断わり、戻ってもらいました。わたしはその後、すでに酔っぱらっていた教師たちに(日本の学校の教師というのは、修学旅行に行くと酔っぱらうのでしょうか・・)さんざん叱られ、ずっと正座をさせられたままでした。

「お前は時間も守らずにこんな遅くに戻ってきてその上外泊しようとするなんて、ふざけとるのか〜!」

わたしは酔っぱらったクソおやじたち(と、こころで思っていた。)に叱られる理不尽さと憤りもありましたが、大きな体の肩を落とし「せっかくお前のためにとってもらった良い旅館なのに、楽しみにしていたのに、わしひとりで今夜寝るのか・・・」としょんぼり戻って行った祖父の後ろ姿が哀しくて正座したままわんわん泣いたのを覚えています。

九州の片田舎の高校生が修学旅行に行くとじいちゃんが東京にいて、そのじいちゃんと渋谷だのパルコ劇場だのに行く事自体が珍しかったのですが、築地の旅館に外泊などもってのほか、という世界でした。あのときは、無理難題を言う祖父が少し恨めしかったのですが、それを平気でやろうとした祖父がいかにも祖父らしかったと思います。

もうひとつよく覚えているのは、もっと幼かった頃の冬の朝のこと。学校に行く前に祖父の書斎でよくお茶やホットミルクを飲ませてもらっていたのですが、ある朝祖父がとても嬉しそうに呼ぶのでどうしたんだろうと思って行くと「ご覧!」と障子を開けました。庭とその向こうに広い菜園が広がっていたのですが、その朝は雪が積もっていました。祖父は興奮した面持ちで外を指差し、「あれが見えるか?美しいじゃろう?」と言うのです。

そこには真っ白に広がる景色に落ちた鮮やかな群青色がありました。鳥が落として行った糞です。祖父が言いました。

「どうじゃ、美しかろう。この床の間にかかってある掛け軸も確かに美くしい。けれど、雪の上に落として行った鳥の糞の鮮やかなことよ。美というのは、いたるところにあって、それを見つけるこころを養うことが大切なんじゃ。」

このようにして、美や美味しいものや驚きを見つけるこころを祖父は散歩の途中や、食事中や、寝物語に説き聞かせてくれていました。また強きを頼らず、弱きを助けるようにとことあるごとに言われました。

祖父は、人間の幸福と、自分の足で歩き自分の頭で考える、ということをいつも大切にしていたように思います。それは権力や全体主義よりも、個々人の生活の中にある本当の幸福、ということだったのだと思います。そして、自分ひとりの幸福ではなく、世の中のみんなの幸福を願い、祈り、行動していたと思います。でなければ、恵まれた境遇に生まれながら、そのすべてをひとつずつ捨てるようにして生きるようなことはなかったでしょう。

それが時には破天荒な行動となったり、自身や身近なひとを痛めつけるような状況を招くようなことにもなったのかも知れません。(祖父は拘束されている間に激しい拷問を受けている。そして、同じように拷問を受けた弟をわずか19才の若さで亡くした。)けれどわたしには、あの16才の秋に祖父と二人で観たコンサートはこれまで数多く観たコンサートの中でも特別な輝きを持ってこころに残っており、今でもあの雪の上に落ちた鮮やかな群青色はハッキリと脳裏にあり、彼の言葉の数々はなにものにも代え難い宝となっているのです。そして、こうして改めて年譜を振り返り、祖父を一個の人間として見たとき、自分の理想に向かってたゆまない努力を続けたその魂に、感謝の気持ちを送らずにはおられないのです。

前田芳

祖父が学校に通った道。

旧制中学に通うために歩いた道。片道約8キロの道のりを毎日歩いて通ったという。歩きながら多くのことを考え、友人たちとも語らい合ったそうだ。「毎日歩いたあの日々がわしを作ったと思う。歩くことは大切じゃ。」そう祖父は言っていた。

わたしがまだ幼いころ、その同じ道を自転車の後ろに乗せてもらってよく行き来した。この神社で友達と口論になった、とか、ここまで来ると家の樹が見えていつもほっと安心したもんじゃ、といろいろ話してくれた。60代だった祖父だが、わたしを後ろに載せても平気で自転車をこいでいた。若かりし頃に鍛えた脚力は、彼の人生を支えたのだろうと思う。

生と死と義と

早くに父親を亡くすという経験をしたせいか、年端もゆかぬ頃から生と死について考えていたという。親類の寺に通い「死とはなにか」「生きるとはなにか」「義とはなにか」と和尚と問答していた、と言っていた。

そして母方の祖父は京都郡の郡長であり、父方は延永の村長で父は旧制中学の校長という社会的に恵まれた家に生まれ、世の中の不平等と社会のあり方について深く考えたとも言っていた。

少年時代の祖父。一番左。

左から2番目の身をかがめるようにしているのが祖父。

考える人

祖父の書斎はいつも足の踏み場のない状態だった。そして遅筆なひとだった。う〜ん、う〜ん、と言いながら原稿を何度も書いては書き直し、書いては書き直ししていた。書き損じを庭で燃やしながら炎をじっと静かに見つめていることもよくあった。いつもなにかを深く考えているひとだった。そして友人と呼べるひとの多い、ひとを信じるひとだった。

笑顔

祖父のことを思うときまず思い浮かべるのは、笑顔である。ちょっとはにかんだような、それでいていたずらっぽい、その笑顔。しかし年譜を改めて見ると、彼の人生は決して平坦なものではない。しかも20代のほとんどを拘置所や刑務所の中で過ごしている。激しい拷問にあったと、その様子を詳しく何度も聞かされた。お陰でこちらは悪夢を見たこともあったが、そんな話しをするときも、祖父は少し笑ったような顔だった。

祖父の友人によって描かれた鉛筆画の肖像。

祖父の形見のライターと紙はさみ。

遺されたもの

亡くなったとき、わたしはヨーロッパにいて葬式にも間に合わなかった。戻ってみたら大きな体が小さな骨壺におさまっていた。そしてわたしの手元に遺されたのがこの二つ。長い間愛煙家だったけれど、病に倒れてからはタバコは絶っていた。それでもこのダンヒルのライターはずっと持っていて、原稿を書くときや考え事をするときに、手の中でいつも転がしていた。そうして、角はすっかり丸くなってしまっている。もうひとつは70年代初頭から持っていた紙はさみ。カラスの顔をしとるんじゃ、なかなかようできていて愛嬌もあってええじゃろう、と笑って何度もこのカラスの口を開けたり閉めたりしてみせたのを思い出す。

祖父はお金やモノはほとんどなにも残さず逝った。でも、こころに沢山の財産をもらった。


続瓢鰻亭通信


前田俊彦著
土筆社
1975年


ドブロクをつくろう


前田俊彦編纂
農文協
1981年
1,260円


ええじゃないかドブロク


ドブロク裁判記録
前田俊彦編纂
三一新書
1986年


森と里の思想


大地に根ざした文化へ
前田俊彦/高木仁三郎対談集
七つ森書館
1986年


百姓は米をつくらず田をつくる


前田俊彦著
鳥海社
2003年
2,100円


瓢鰻まんだら


前田俊彦追悼録刊行会
農山漁村文化協会
1994年
2,500円



Biography

1919年9月17日
福岡県鞍手郡宮田町に父俊一郎(旧制鞍手中学校校長で蔵書家)と母レイ(京都郡郡長の長女)のもとに長男として生まれる。父親の影響で本の虫として育つ。
1917年(12才)
父俊一郎死去。父の実家、京都郡延永村に鞍手郡から転居を移す。実家の祖父は初代延永村村長。
1921年(17才)
豊津中学校を卒業。上京。ここで労働組合にかかわりはじめる。
1930年(21才)
日本労働組合全国評議会に参加(東京)
1931年(22才)
日本共産党入党。大阪に移動。
1932年(23才)
治安維持法違反にて京都で検挙される。滋賀、神戸、京都、大阪、ならなどの拘置所を転々としたのちに、懲役7年の実刑判決を受け、福岡の刑務所に送られ服役。
1939年(30才)
保釈処分となり、福岡県も侍史の三光寺に住む。党活動を通じて知り合った小山梅香と結婚。
1940年(31才)
服役中や保釈中に書きためた文章を発表し、これが治安維持法にかかり、再び検挙される。禁固10ヶ月。
1941年(32才)
釈放。延永村に戻る。産業組合の酒石酸製造の技師となる。長女民(たみ)誕生
1943年(34才)
次女賤(しず)誕生
1944年(35才)
長男述彦誕生
1946年(37才) 
木工所を開業
1947年(38才)
この年の春先に起こった 2.1ゼネストを機に共産党から距離をおき始める。
1948年(39才)
延永村村長に就任。次男伴比古誕生。
任期中、農民の権利と生活環境を向上するために、労働状況の改善、新しい野菜の導入、橋の建築や、小学校の改築などに尽力を尽くす。また、県を相手取り、米の供出割当量が過重であり、農民を圧迫していると抗議。
1953年(44才)
市町村合併のため村長を辞任。県農業委員を務める。さまざまな事業に着手するが商才なく、失敗する。木工所も閉じる。
1962年(53才)
私信『瓢鰻亭通信』の発行を始める。これがだんだん世の中に知られ始める。
1966年(57才)
べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の東京事務局を訪れ、以後、 開高健小田実鶴見俊輔らと活動をともにする。
1969年(60才)
『瓢鰻亭通信』が土筆社より出版される。
1971年(62才)
西日本新聞社『明日の西日本を考える30人委員会』の委員となる。
『根拠地の思想から里の思想へ』を太平出版より出版。
この頃より、各新聞社、雑誌社への連載が始まり、テレビやラジオのメディアにも進出。
1975年(66才)
4月 第二次日本文化界友好訪華団の副団長として、 安藤彦太郎日高六郎いいだもも吉川勇一らと共に中国を訪問。
10月 『続瓢鰻亭通信』を土筆社より出版。
1976年(67才)
1月 雑誌『一同』創刊にかかわる。
2月 九州を巡る。 吉川勇一、日野文雄(福岡県出身/フォトジャーナリスト)が同行。
6月 『三里塚廃港要求宣言の会』発足。代表となる。
1977年(68才)
5月 三里塚に拠点を移す。
1978年(69才)
『三里塚廃港への理論 I 』前田俊彦編著を拓殖書房より出版。
1981年(72才)
『ドブロクをつくろう』前田俊彦編著を農文協より出版。これが農文協のベストセラーとなる。ドブロクを作り、国税庁長官を利き酒会に招待する。
1983年(74才)
5月 『廃港宣言の会』総会。
7月 参議院比例代表選に無党派市民連合より出馬。落選。
9月 雑誌『ひろば』創刊。発行人となる。 
   第一回ピースボートに乗船。小笠原、グアム、サイパン、テニアンを訪問。
11月パキスタン訪問。
1984年(75才)
酒税法違反で起訴される。いわゆる『 どぶろく裁判』が始まる。
1985年(76才)
1月 一過性脳溢血症により福岡県の家で倒れる。
7月 『廃港宣言の会』総会。
10月病より復帰。快気祝い。
1986年(77才)
3月 三里塚空港粉砕総決起集会
   『どぶろく裁判』千葉地裁より有罪判決。ただちに控訴する。
10月 高木仁三郎との対談集『森と里の思想』を七つ森書館より出版。
11月中山千夏氏呼びかけで喜寿の会が東京で開かれ、多くの友人知人が集まる。
   『ええじゃないかどぶろく』前田俊彦編を三一書房より出版。
1987年(78才)
脳梗塞で倒れる。リハビリ生活に入る。
1989年(80才)
8月 札幌で世界先住民会議に参加。
10月傘寿の会が東京で開かれる。三里塚現地集会に参加。
12月最高裁が『どぶろく裁判』上告を棄却。有罪判決がおりる。
1990年(81才)
11月ピースボートに再び参加。
12月船上で再び脳溢血で倒れる。
1993年(83才)
4月 没。享年83才。
6月 最後の『瓢鰻亭通信』が発行される。(第9期2号)
1994年
追悼集『瓢鰻まんだら』が農山漁村文化協会より発行される。高木仁三郎、小田実、筑紫哲也、中山千夏、松下竜一、吉川勇一、辻本清美、伊藤ルイなどほか多くの生前の友人、知人たちから文章が寄せられる。
2003年
『百姓は米をつくらず田をつくる』前田俊彦著が鳥海社より発行される。
2004年
『百姓は米をつくらず田をつくる』が第17会地方出版文化功労賞受賞